トラストコーチングスクールには、映画からコーチングを学ぶ「映画部」があります。
もう2年ほど続いているけれども、映画からコミュニケーションを学ぶことは実は可能だし、せっかく見るのであれば、人生に生かせる何かを掴んで終わりたい。
映画には大きく2種類の解釈があって、「見たいように見る型」と、「文脈を徹底的に捉える読解型」。
読書でもそうだが、あまりにも「いや、そんなことは言ってないよね」という読み方は、結局、今自分が持っている視点に固執することになり、新しい学びがあると思いきやなかったりする。
だけども、「これが正しい見方だ!」と論評するものも中にはあるけれど、そこまで断言できるほど、僕は自分の読解力には自信がないです。
なので、割と「見たいように見る」ことを映画ではやっています。
そうなると、デメリットとして新しい視点が得られないのだが、そこは映画部です。
様々な視点を持った人たちが集まり、各々の視点でみた場面の共有があるので、考えもしなかった視点を得ることができるのです。
さて、今回は各種映画賞も獲得した「ララランド」
2時間ほどの映画だし、印象的だった場面を挙げればキリがなくなります。
なので今回は、映画部の中でもやや意見が割れた場面について考察してみます。
※ここからネタバレ含みます
それは、最後の「あったはずの未来でセブの夢は叶っているのか問題」です。
映像を見る限り、どうやら自分の店をもつことはしていないっぽいから叶っていないと見る人といや叶っていると見る人の対立構造です。ざっくり言えば。
僕は「これは叶っている」と考えています。
「夢をなんと捉えるか」の違いなんですよね。
この物語の中盤で、彼は「店を持つこと」を掲げます。
そして、ミアもそれを応援する。
だからこそ、終盤の喧嘩の場面で、「店をもつことはどうしたんだ」と問う。
ここで、夢=店をもつこと、と定義されるのは流れとしてはわかります。
ですが、ここで思い出したいのは、セブが店を持ちたいと言ったその目的です。
彼は、「店を持つ」と話す前にこう言っているのです。
ジャズを死なせたくない
そうです。本当の彼のやりたいことは、「ジャズを守ること」だったはず。
そのための手段として「店を持つこと」があるのです。
ミアもなんとなく感じ取っていて、店を持つことは?と問うものの、「今の音楽は好きなのか」と問うのです。
つまり、守りたかったはずのジャズはそこにあるのか。
逆に言えば、奏でたいジャズが奏でられるのであれば、手段は店を持つことでなくてもよかったはずで。
さらに言えば、初めてミアに「店を持つ」と話したときは、彼にとってそれが確かに夢だったのかもしれません。
ですが、共に過ごす時間が長くなると共に、こう、彼の夢の形が変わってきてもおかしくないのではないでしょうか。
ミアを応援しながらジャズを守っていきたい
そうでなければ、あの喧嘩の場面で、リスペクトを大いに欠いているとは言え、「一緒にいこう」などとは言わないはずです。
どこか、「これじゃない」と自分で分かっているからこそのイラつきを覚えてはいても、彼にとってミアは応援したい存在で、逆にそばにいて欲しい存在でもあったのだからこその発言ではないでしょうか。
そう考えながらあのラストの妄想を見ていると、彼は店を確かに持っていないように見えるのですが、それでもジャズを手放してなどおらず、ミアと共にジャズを守っているんですよね。
つまり、彼はあの妄想の中で夢を叶えているんだと、僕は考えるのです。
さて、映画の評論がしたかったわけではなく、もし、自分のやろうとしていることが叶わなかったとき、立ち止まって考えてみたいなと思うんです。
果たして、叶えたかったのはなんだったのか。
確かに、1つの手段は叶わなかったのかもしれない。だけど、その目的はそもそもなんだったのか。
夢というのならば、目的こそが夢になるはずです。
今回の例で言えば、店を持つことは手段であり、仕事の1つです。
その目的はジャズを守ること。
今、僕は「コーチ」という職業で表現をしていますが、その目的は何か。
他人の理想に翻弄されながらも、自分を表現しようともがく人を応援すること。
職業そのものに誇りと信念を持つことは素敵なことです。
でも、その目的こそ見失いたくないですし、1つの手段がダメだからと言って、じゃあ目的も叶わないのかと言えばそんなことはない。
もし今、1つの手段がダメになって打ちひしがれているのなら、ララランドを観て、本当の夢はなんだったのか、を改めて思い出す時間にしてみても良いかもしれません。
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