「墓石になんて書かれたいですか?」
「葬式で誰にどんな言葉をもらいたいですか?
人生のあり方を考えてもらう質問として、よく引用されるこの2つの質問。
僕たちは当たり前のように、10年後、5年後、1年後、そして明日を生きられる前提に立ってしまいますが、一寸先は闇。
縁起でもない話かもしれませんが、僕たちはいつ死ぬかわからない世界を生きています。
だから、自分の生き方、とりわけ、「今日をどう生きるか」は実はかなり壮大なテーマなのでは?と思えてなりません。
この2つの質問は、そのライトな雰囲気を装ってこそいますが、かなりの覚悟を問われていると言わざるを得ない。
年始の今だからこそ、改めて考えてみたい問いなんです。
森鴎外の死生観
とはいえ、すぐには自分の答えなんて出てはこないもの。
真剣に考えれば考えるほど、「どう死にたいか=死生観」はなかなか定義できません。
では、過去の偉人はどう考えたのか。
それがわかる図書がこちらです。
森鴎外の「遺言三種」です。
Kindleであれば、青空文庫で0円で読めます。旧仮名遣いなので読みにくいのですが、この文書には森鴎外の覚悟を感じてなりません。
親友に託した遺言の中で、彼はこう言っているのです。
「私の墓石には森林太郎(本名)以外、何も書いてくれるな」
森鴎外と言えば、陸軍将校になった男であり、医師でもあります。
当時の階級社会においてはトップもトップ。超エリートです。
階級が人としての格も表していたと言っても過言ではない当時にあって、この言葉はかなり異色に映ります。
自分の「実績」ですから。
現代においてでも、実績がことさらに強調されるじゃないですか。一種のステータスってやつです。
いわんや当時をや。
実績よりも個の尊厳
だけども、鴎外は「書いてくれるな」と遺言を残した。
陸軍将校としての実績も、文豪としての実績も何もです。
彼が生きた当時は、いわゆる「自由」がほぼ認められていない、というよりも概念すらなかった時代です。
「国家」が自我みたいなものでした。
ですが、森鴎外は「個人の自我」に目覚めたと言いますか、ヨーロッパの文化に触れたことがきっかけで「個」としての自分を表出させようとした人だと言われます。
舞姫なんかは、現代の価値観に照らすと「クズ野郎」になってしまうのですが、当時の「国家=自分」の価値観の中で「個 森林太郎」としての苦悩が実は垣間見える作品だったりします。
まあ、色んな評論がありますし、僕ごときが森鴎外を語れるほどの知見も知性もないので、これくらいにしておきます。笑
いずれにしても、その反発というか、「森林太郎」として自分は生きたのだと彼は言いたかったのかもしれません。
「個人 森林太郎」として死なせろと。
繰り返しますが、現代の価値観に照らせば、むしろこれは普通のことなのかもしれません。
いや、お墓に地位や名誉を書くことはないので、現代ともまた違うのかもしれないですが。
いずれにしても、当時は国家・組織としての価値観が優先された時代だったのです。
この重みは無視できないんですよね。
今でもあるじゃないですが、同調圧力。あれのもっとすごいやつです。
だからこそ、でしょうか。
彼にとって「個人」として生き、死ぬことは何よりも重要なあり方だったのだと思います。
このエピソードを踏まえてなお、これくらいの熱量・緊張感・切実さを持って冒頭の問いを考えてみてはどうでしょうか。
僕自身は、森鴎外ほどの影響力や作品を残すことなど到底できやしないですが、それでもなお、個の名前でもって勝負できるあり方を選んでいきたいなと思うのです。
編集後記
年に1度、年始にあえて遺言なんて読まなくてもいいかもしれないのですが、やっぱり年始だからこそ読みたいなと思うわけです。
しかし、今も100年の時を経て読み継がれる名作が青空文庫だと0円ですからね。
めちゃくちゃいい時代を生かされているなと思います。
青空文庫を心の友に今年もできればなと思います。
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