「博士の愛した数式」をTCS映画部で観た。
原作も読んでいなくて、映画も「観たい」と思ってみていなかったので楽しみだったのだけど、本当に見てよかったし、新たな視点を得られたなと。
これくらい面白く数学を教えてくれていたら、もっと数学が好きになり、しっかり取り組めていたかもしれない笑
もちろん、映画の演出だから、魅力的に映るようになってはいるのだろうけど、無機質な数の羅列、受験としての数学にしか触れ合ってこなかった人間としては、有機的で純粋な「数学」という学問を探求できる場は、やっぱりうらやましいと映りましたね。
映画の展開に特に起伏があったわけではないけれど、ゆったりと優しく時間が流れる映画で、何かと速さ・効率が求められる世界に生きる現代人にとっては、憧れすらも覚えるくらい。
博士は80分しか記憶が持たない。
どんなに楽しく、素敵で美しい時間を積み重ねても、翌日になれば記憶からは消えてしまう。
ゆえに、博士の記憶では、時が流れない。
これだけ聞くと、とても悲しいし、自分がそうなったとしたら…と考えると恐ろしい。
だけれど、時間は流れず、進むことはなくとも、博士と家政婦さん、息子のルートの3人の関係は確実に積み重なり、深くなっていっているのがわかる。
普通の時間の流れの中を生きるルートにとって、糧となり、礎となっているのは、そんな効率とかコスパ、タイパとは一線を画す時間だったりする。
では、なぜそんな関係性を築くことができたのか。
繰り返しになるけれど、僕らはあまりに効率やコストパフォーマンス、タイムパフォーマンス至上の中を生きている。
資本主義経済にあっては、限られた時間の中で最大のパフォーマンスを出せる者こそ有能で、重要度の高い指標になっていると思う。
けれども、彼らにとっては、「初めて」を何年も繰り返すなかで、素直な目で相手を見て、尊重し、知っていく。
家政婦さんとルートは、「昨日」を覚えているというのもあるが、博士の状況を踏まえて「はじめまして」を丁寧に繰り返す。
そんなコミュニケーションの中で、博士が本当に大切にしていることは何かを1つひとつ知っていく。
博士にとっては初めましてでも、相手を知る材料は日々積み重なる。
視点の数が増えた状態で、「初めて」をまたやるから、毎日相手を知る視点が増えていく。
僕たちはつい言ってしまうんだよね。
「その話、前に聞いた」
毎日接していると、相手を新鮮な目で見ることがだんだんとなくなっていってもしまう。
そうやって、「この人はこういう人だ」と決めつけて、軽んじていくことさえもある。
初めてのはずのルートたちの関係性よりも、10年一緒にいるはずの僕らの関係のほうが、関係性が薄いなんてこともあるのではないか。
とても難しいことだけれど、毎日一緒にいる相手だとしても、「初めて会った時のように接してみる」ことが、実は相手を知るためには必要なのかもしれない。
気分やタイミング、様々なインプットがあれば、人を形成する要素は変わる。
何か1つでも要素が変われば、「別人」だとも言える。※乱暴なのはわかるが
相手への興味と言ってしまえば簡単だけれど、初めて出会ったときのような新鮮さを、新しい視点で相手に接する柔軟性を持ってこそ、相手を知ることができるのだろうなと思う。
コーチとして、日々クライアントに接するときのあり方も、こうでなくてはいけないのだろう。
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