TCS認定コーチのウスイです。
「始めに言葉ありき」とは、聖書に記された言葉です。
この言葉の真意を、僕は到底理解などしていないけれど、言葉あって始めて物事を認識できるというのはわかります。
「自分」という言葉ありますが、これは「他人」がいて始めて認識できる。
「分かる」という言葉は、その漢字が当てられているとおり、「分ける」が語源とも聞いたことがあります。
この手の話は諸説あるものですし、本当の意味合いがどうかは永久に不明ですが、自分なりの解釈をして、捉え方を決めていくことはできます。
もし、「分ける」ことが分かることのまず最初なのだとすれば、あっち側とこっち側に分けることが、言葉にするという意味と言えそうです。
これは、何もAとBという全く違うものに対してだけでなく、1つの事象に対しても、解釈を分けることができるし、場合によってはそれは人の性格すらも決めうるものかもしれないのです。
ウスイ家で本当にあった話
今日、娘との間にこんな会話がありました。
娘たちは今、夏休みの真っ最中。
自分にも心当たりがありますが、それはそれはわんさかと宿題が出ています。
そのうちの1つが計算カード。
娘は、この計算カード、特に引き算の方を苦手としています。
やろうとする前は決まってこう言う。
「引き算はできない…」
まあ、そんなはずはないので、「とにかくやってみろ」と、ストップウォッチを片手にスタートさせてみると、
たしかにスムーズにとはいかないし、わからない段に来るとフリーズもします。
掛け算じゃないですが、7の段とか特に。
ただ、そうは言っても、詰まりながら、時折指を使いながらでも進めていくわけです。
結果、完了するまでに5分かかりました。
事実は1つだが…
さて、この事実をどう捉えるでしょうか。
娘の言う通り、「できない」「苦手」「課題」と捉えることもできますし、確かに向上の余地があるのは事実でしょう。
でも、こうも捉えることができる。
「5分かけて出来た」
ポジティブシンキングとかではなくて、単純な捉え方・視点の持ち方の話として、「いや、そうは言えないでしょ」ということはないはずです。
超些細です。
些細ですが、「できない」と捉えるか「できる」と捉えるか、どちらが自分自身の気持ちを持ち上げられるでしょうか。
多くの場合、後者だと思うんですよ。
どういう捉え方を選ぶのか
本人としては思うようにいかなくて納得できないかもしれないけど、事実を解釈すると「時間をかけて出来た」と捉えてもいい。
こういう些細な言葉の使い方って、大人になってから響いてくると思うのです。
昨今、「自己肯定感が低い」という言葉を目にします。
本屋に行けば、「自己肯定感」が踊るようになりました。
これって、こういう些細な言葉づかいの積み重ねだったりしないでしょうか。
ポジティブとかネガティブとかの安易な話ではなく、物事の捉え方として別の見方もあるんだよ、という視点の話です。
私たち大人も、「自分にはできない」と納得のいくような結果でないことの比較として言いがちです。
でも、「できる」に語尾を変えるとすればどう言い換えることができるのか。
こうした些細な言葉遣いを見直すだけでも、無駄に自信を失うようなことは激減するのではないかと思うのです。
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