意外とやりがちな承認欲求との付き合い方

TCS認定コーチのウスイです。

特にSNSの世界では、何かいいことを言ったり、自分の目標や夢を語れば「承認欲求」と名前を付けられることがよくあります。

僕自身、「これは承認欲求だろうか…?」」とおっかなびっくり発信をすることがあります。

その前提には、「承認欲求=悪」という思い込みがあるからです。

ですが、この承認欲求ですが、本当に悪とばかり決めつけてよいとも思えないのです。

むしろ、執着しないバランスのよい承認欲求は、人のパフォーマンスを高めるとすら思います。

というのも、その承認欲求を原動力にして頑張れることが確かにあるからです。

あの人に認めて欲しい

オリンピックの選手が、素晴らしい演技・競技をして結果を残した後のインタビューでこう語るのを聞いたことがあるはずです。

「家族にこの喜びを伝えたい」

これも、家族に今回の活躍を見てほしい。認めて欲しい。

そんな、ある種の承認欲求です。

「だから頑張ることができた」と、アスリートは言います。

この感情は、果たして「承認欲求だ」として揶揄されることでしょうか。

なんでも感でも「承認欲求」として揶揄することは、それ自体が思考停止であり、時代遅れとも言えそうです。

自分の失敗エピソード

さて、自分について考えてみます。

僕は、ある1人の男の元で、コーチングをもう長いこと学んでいます。

芽が出ている・出ていないは、クライアントさんが決めてくれればと思いますが、いずれにせよ「彼に認められたい」という気持ちがあったのは確かな事実です。

それが行き過ぎて、執着してしまっていた時期は、クライアントさんの顔ではなく、常に彼の顔が浮かんでいました。

当然、そんな時期は上手く行きません。

コーチングを受け、「こだわっているよね」というフィードバックを受けて、それでも最初は消化できませんでした。

でも、冷静に考えてみたら、確かに執着しているなと気づいたのです。

そして今度は、「そんなんじゃダメだ!」と、逆にその感情を捨て去ろうとした。

こんな感情は「悪」と決めつけたのです。

だけど、「憧れ」は、理屈ではどうしようもない。

だから、そんな自分のあり方を「てんでなっちゃいない!」と責め続けました。

結果、やっぱり上手くいかなかったのです。

気づいたこと

そんな中で、過去の偉人やアスリートの言葉を見ていると、総じて、「誰かに認めて欲しい」という気持ちを持っていたことが分かりました。

結局のところ、手放そうと思っても早々手放せない。

素直な気持ちに従うのであれば、憧れの気持ちは本物です。

であれば、その気持ちごと否定しなくてもいいはずなのです。

憧れ自体は、尊いでしょう。ありがたい存在じゃないですか。

どっちにも執着しないバランス

「嫌われる勇気」が流行ったからか、承認欲求から来る行動は不自由、みたいなことが広まりました。

ですが、これはこれで行き過ぎで、今度はそっちへの執着を生んでいるように思えます。

「真ん中」という意味では決してないですが、承認欲求も使いようで、バランスです。

僕たちは、人と人の関係性の中で生きている。

だから、誰かに認めてもらいたい、という気持ちは原動力になる限りはうまく活用していけばよいのです。

それが、執着にまで行くとバランスを欠いているというだけで。

だからもし、自分は承認欲求まみれでダメな奴だと自分を責めているとしたら、その感情を持つことを一度肯定してみると良いかもしれません。

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ABOUTこの記事をかいた人

TCS認定コーチ | 半径10mの人間関係を良くしてご機嫌な毎日を送るコーチング|人生の目標も悩みもコーチングの力が役立ちます| 人間関係と父親コーチ視点で子育ての発信をしていきます。|軽井沢とスポーツをこよなく愛している2児の父です。