別の媒体で書いたら、ほぼ全くと言って良いほどに共感を得なかったことをブログにも書いてみます。
僕としては、とても大事なことなんじゃないか?と思って、20代の頃から頭に残っていることなんです。
先日、びっくりするような事件が起こりました。
犯人の動機はニュースで伝わってはくるものの、言葉では何とでも言えますし、その本音は突き詰めていけば「わからない」に行き着くのではないかと思います。
それこそわからないですが。
何であれ、共感はできないし、納得もできない。現場に居合わせれば全力で逃げることを選択するのは間違いない。
ただ、それでもある意味で外にいるからこそ、こういう事件が起きたときに常に考えるようにしていることがあります。
それは自分の中にも巣食っているであろう悪意、課題について。
この視点は、実は過去に尊敬する先生からいただいた問いなのですが、その時に受けたインパクトが強烈でして。
なので、こういう事件が起きるたびに思い出すのです。
ちょっと前に、映画「ジョーカー」を観ていました。
彼は元々は優しさを持った人だったのですが、誰からも理解を示されず、蔑まれ、報われることがない人生を歩んでいた。親でさえ、理解を示すことがなかった。
そんな人生を歩むうちに、社会に大して悪意を躊躇なく振る「ジョーカー」になっていった。
極端といえば極端ですし、フィクションの世界です。
でも、現実に模倣犯が出るくらいには、今、孤独と闘っている人は実は多いのでしょう。
現代社会はSNSでのつながりができている一方で、実は孤独に悩み、バーチャルの世界は「孤独の群れ」でしかないのかもしれない状況はよく目にします。
僕自身がその1人と思われている可能性だって捨てきれません。
ただ、現実に置いて僕自信が孤独に怯えることは、今のところ少ない。
それは、僕にとって大切だと思える存在が確かにあるからです。
家族しかり、仲間しかりです。
でも、じゃあ果たして、これは自分の努力があったからであり、自己投資をしてきたからであり、意識高く生きてきたからなのか。
崇高な想いを軸に、自分を高めてきたからなのか。
まあ、控えめに言っても答えはNOです。
もしそうだと確信しているのだとしたら、それは傲慢な態度と言えるなと。勘違いは常にしそうになってしまうのですけども。
では、僕自身はなぜジョーカーになることなく、こうして生きていられるのか。
それは、僕自身に弱さがあるからに他ならないなと。
到底、自分の中に巣食っている悪意を、自分1人で抑えられるような強さを持ち合わせていないからなんですよね。
ジョーカーになりかねない悪意の種を、きっと僕も持っているのだけど、それが芽を出さずにいるのは、僕が強さを持っていないから、芽を出さない環境を与えられて生まれてきたから。
つまり、両親や親族、出会ってきた先生や友人、僕に様々な影響を与えてきてくれば周囲の人たちが、発芽を抑えるように振る舞ってきてくれたおかげでしかないのです。
その環境がなければ、僕はもしかしたら今頃、、、
もちろん、これは想像の話ですし、たらればで考えたらキリはないですが、すぐに調子に乗って傲慢になってしまう僕には大切な想像訓練です。
繰り返しますが、犯人に同情する訳でも共感する訳でも理解を示す訳でもないです。
肯定なんて到底できません。
ただ、自分の課題を振り返るとこうなる、というだけの話です。
極端に顕現することがないだけで、きっと誰しもが悪意を持っている前提に僕は立ってます。
そのことに反発を感じる人もいるかもしれません。それが、あまり共感を得ない理由でしょうかね。
ただ、「自分は決してそうはならない」と無邪気に信じることもちょっとできないんですよね。
やっぱり、悪意持ってますからね。聖人君子なわけがない。
この視点を得たのは20代の頃だったのですが、それから何年もたち、子どもがいるような年齢、環境にもなりました。
つまり意識するにせよしないにせよ、自分が支えてもらっていると同時に、支える側にも回っていることを意味してます。
世の中にそれほどの影響力を持ち合わせてなどいませんが、少なくとも、自分の半径10mの人間関係の中で、「理解されてないな」と感じ、孤独に悩む人が出て欲しくはない。
とはいえ、まだまだ僕自身が人としては未熟で成長途上。
どれだけのことができるのかは未知数ですが、諦めずに精進したいところです。
コーチングを学び、コミュニケーションを日々考えるのも、その修行の一環です。
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