娘が僕に言った。
「できない」自分に出会うのが怖い。
なんでこんなことを言っているのかというと、小学校なんとかテストとかいうのを受ける・受けないの話になったからだ。
娘は勉強に限らず、自分が試される場面になるとひよってしまう一面があるんだ。
と言っても、娘は小学校3年生。
「そういうもん」と言えばそういうもんでもあると思う。そのこと自体を、今、問題視はしていない。
むしろ、「できない自分に出会うのが怖い」と、しっかり口にできる強さがあるんだな、と関心すらしている。
親バカも入っているとは思うけどね。
だけど、大人になると、この一言が言えない。
むしろ、自覚していないことさえある。
その裏返しとして、できる自分をアピールしたり、実績を必要以上に強調したり、先回りして自分は優秀であることを示そうとしたり、頼まれてもいないアドバイスをしてしまったりする。
全部、他ならぬ僕の話だ。
極め付けは、大人になると、チャレンジから容易に逃げてしまうのだ。
できない自分と出会わないようにするために、空想の中でのできる自分でい続けるために、証明される場面には立ち会わない。
そうすれば、いつまでも「できる自分」のままでいられるから。
そうやっているうちに、いつの間にかその自覚を失って、マウントをとることに躍起になっていく。
井の中の蛙となり、井戸が干上がっても気づかない。
こんな恐ろしいこともないだろう。
そんな娘に僕がしてあげられることと言えば、僕自身が何かにチャレンジし、失敗しても立ち上がり、「できない自分」に向き合う姿を見せることが1つだろう。
加えて、娘が怖さに向き合い、チャレンジする姿を、結果はどうあれ応援し続けることくらいなもの。
怖がるなと言っても、怖いものは怖いわけだ。
だけども、娘は涙を流しながらも、果敢に挑戦することを選んでいる。
怖さに立ち向かう強さを、本人は自覚していないけれど、確実に持っているのだ。
であるなら、親である僕自信が、その強さの方を認め、励まし、応援するのは当然のことだろう。
世の中を見渡すと、自己肯定感が低いとかなり叫ばれるようになった。
本屋に行けば、もはやコーナーができているほどに、自己肯定感を高めるための書籍が所狭しと並んでいる。
毎月、新刊も出版されている。
それくらい、自分を責めている人が多いし、責めざるを得ないように追い込んですらいますよね?とツッコミの1つも入れたくなるような言葉に溢れている。
だからあなたはダメなんだと。
つまるところあの手の言葉は「私の話を聞け」としか言っていないのだが、弱っているとどうしても重く受け止めてしまう。
だけど、そんなこと言われても無理だと思うかもしれないけれど、「とりあえずそんな話は捨ておけ。君の話をしてくれ」と言いたい。
「できない」ことそのものと向き合い、なんとかしたいと思うからこそ、書籍にも頼る側面があるわけだが、自分は強いと思い込んでいる人は、弱さの奥にある強さなんて気づいちゃくれないんだ。
上から言ってくる人ほど、奥底の自分の弱さに気づいてすらいない。
「私はこうした」「私にだってできた」とそんなことはどうだっていいのだ。
今、課題にしているのは、今「できない」ことに打ちのめされ、それでもなんとか立ち上がり成長しようとしている君のことなのだ。
その解決策に、正解などあろうはずがないじゃない。
できない自分に向き合う強さがある。
これが正解でもないのだけど、とにかく自分の振動数を落とさない捉え方を見つけて欲しい。
あわよくば、自分から、誰かの振動数を高めるようなコミュニケーションをとることができると素敵なのではないか。
僕の娘に対する関わり方が、この先どうなっていくのかは、どんなビジョンを彼女との間に持てるかに関わってくる。
あなたは、できない自分に出会う怖さがあると、自覚できるのなら、それはむしろ強さだ。
できないのはわかった。
だからどうするのか。
そこから始めることができるのは、これからにとって、めちゃくちゃ大きなことではないだろうか。
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