TCS認定コーチのウスイです。
昔から、「他力本願」はダメだと思ってきた。
一般的に使われる意味では、他力本願とは「他人に丸投げ」という意味で使われているじゃない?
自分のことのはずなのに、どこか他人に期待をしてしまう。
それは、自分の人生に向かう態度としてあまりにナイーブであり、無責任である。
そう思っていたからかもしれない。
調べてみたら衝撃の結果が…
ただ、ここ最近、改めて「言葉」にアンテナを立てるようになり、「他力本願」を当たり前のように「丸投げ」の意味で捉えていたけれど、果たして語源は…?
と思って調べてみた。
そうしたら、軽く衝撃的な意味で説明されていた。
『他力というは、如来の本願力なり』
「他力」とは、例外なく阿弥陀仏の本願力を意味します。しかも「たのむ」とは、「あてにする」という意味の「頼む」ではなく、「憑む」という漢字を書きます。これは「よりどころとする」という意味です。つまり「他力をたのむ」とは、「阿弥陀仏の本願をよりどころとする」という意味なのです。
(中略)
親鸞が他力をよりどころとして生きると言うのは、これら中心を持った願いにしたがって生きるのではありません。自分からは一番遠いもの、むしろまったく反対の側からの、まさに「自」から言えば絶対的に「他」であるものからの願いを聞きとめて生きることを意味します。その私の願いから最も遠いものが、阿弥陀仏の本願と言われるのです。
私の社会、私の国、私たち人間という一切の立場を離れた最も遠い存在から、私たちはいったい何が願われているのでしょうか。「私の立場」を優先させることを捨てて、このことに耳を傾けながら生きようとする態度を、自力を離れて他力をたのむと言うのです。「私」を捨て、逆に私は阿弥陀仏から何を願われているかを聞きとめて生きることが、争いの絶えない今の世界には大切なのではないでしょうか。
大谷大学HPより
実は仏教用語がもともとの成り立ちで、実は、「他人に依存する」という意味ではなかったというのだ。
僕は、宗教に関してはまーーーーったく詳しくないし、専門家の方からしたら「何を言ってるんだ?」と思われるかもしれない。
それを承知で、この説明をぼくの読みたいように読ませてもらうとこうなる。
「自分のことばかり考えていないで、他人や、目に見えない何かの力を感じ、声を聞き、理解する努力をするのだ」
つまり、「他の力」の本当の願いは何か。
七つの習慣という有名な書籍の言葉で言えば、寄生的な意味での依存ではなく、むしろ相互依存。
お互いに支えあい、信頼を築くという「コミュニケーションをとって人を知り、信頼関係を築け」という意味なのだ。
本来の意味は逆である
当然、僕の「コーチ」というポジションが、この解釈に影響していることは否めない。
だけども、「他力本願」は、自分勝手な自分だけの立場を投げ捨てて、人に依存するかのような態度という意味でないのは確かだ。
むしろ、その逆とも言える。
なぜ、反対の意味になったかはともかく、調べたことをきっかけに僕らは改めて、関係性の中で生きているのだということを実感する。
ビジネスだってそう。
社内の人との関係性があり、顧客との関係性があって始めて成立する。
プライベートでも同じ。
友人や仲間、家族の存在が、「自分」を自分たらしめてくれている。
コミュニケーションをせよ
じゃあ、どうやってその関係性を築いて行くのかと言えば、やはり丁寧にコミュニケーションを取っていくしかない。
目の前の人が大切にしていることを大切にする。
相手のことを考え、全力を尽くし、自分を理解してもらうように努める。
そうやって、お互いに、応援するような関係を少しずつ築いていく。
他の力を強く備える人は、徹頭徹尾、コミュニケーション力を高く備えた人のことを言うのだと思うのです。
だけど、そうは言っても難しいと感じるのがコミュニケーション。話せればいいかと言うとそうでもない。
だからこそ人は、コミュニケーションをもっと学ぶべきだと、コーチだから伝えたいのだ。
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